chinaT’s blog

『行き詰った‼』大丈夫、きっと。一緒に進もう。

別れた夫は、モラハラ夫

導かれるように、マンションのベランダへ向かい、『ここから飛び降りたら一発で死ねるだろうか』、そんなことを考えて身を乗り出していました。

妊娠5カ月頃だったろうか。お腹はかなり出ていて、胃酸が逆流して喉が焼けるようなつわりと闘っていました。

 

 

同じように妊婦さんを連れた夫婦関係を見かけて、旦那さんが奥さんのバックを持っていてくれたり、歩幅を合わせてくれていたり、自分と比較してしまい、夫婦そろって外出するのがすごく嫌だったのを覚えています。出かける時は「食事にいくよ」なんて言われるとうれしくなっていたのに、車に乗った時から後悔するほどの空気感でした。最悪な夫婦関係だったと思います。亭主関白・・・それとはわけが違う気がします。

 

 

19歳になる年に大学へ通うために青森から神奈川へ上京し、大学生活がいよいよ始まるんだな・・・髪の毛を茶色に染めて、ピアスの穴も開けた。大学デビュー。

 

妹、弟を持つ3人きょうだいの一番上のお姉ちゃんとして、典型的な長女だと思います。しっかりしなきゃ、下の子たちをよく見てあげなきゃ、あ母さんのお手伝いもしなきゃ、そんなことをいつも考えながら幼少期から過ごしていました。

高校は進学校へ進み、規則が厳しすぎる高校でした。

勉学に力を入れているのか、規則を破る子を見つけるのに力を入れているのかよくわからない高校でした。高校を卒業したら・・・の両親との約束を果たしたかのように、やりたいことはだいたいやった気がします。

 

 

話は戻って、大学デビューを果たし4月。桜並木を歩きながら大学へ通う。その時の気持ちよさを鮮明に覚えています。一人暮らししている、誰にも監視されずに過ごす日々がたまらなく快感でした。

夏も近くなったころ結婚にまで至った彼氏と、すぐに同棲するようになった。むしろ、彼は実家暮らし。大学近くに住む私の家に転がり込んできたのです。

家にくるのも頻回になってきて、鍵も私の鍵を勝手に持ち出して合鍵を作ってきた

『都会の男は・・・これが普通なのか?』

怒るよりも驚くことの方が先でした。この時のような疑問は7年間の交際期間の間もたくさんありましたが、自分が寛容になりさえすれば、そこまで悪い関係には至ってはいませんでした。むしろ仲良しなんだと思い込んでいました。

 

それが人生波瀾万丈になるきっかけだとは知らずに、けんかするたびに謝り、すがりつき、私が悪かったと言わされ泣き、それで丸くおさめていた。

 

勉強と部活ばかりしてきた私は、人との付き合い方も未熟で、自分では判断できなかったんだと思います。

 

『俺についてくれば間違いないから。』

 

すりこまれ、自分を見失っていたのだと、離婚して生活がようやく落ち着いた頃にふと思いました。

 

 

結婚後彼はサラリーマンとしてではなく、起業し代表取締役へとなった。

どこから集めたのかは不明ですが、数名の会社。いや、従業員は二人だけかもしれない。そこから彼は人が変わったように見えました。

 

私の顔を見たくないといい、スーツケースをもって一カ月帰ってこない日が何度かあった。ホテルに泊まっているのだと。浮気・・・ではなさそうでした。確かにキャバクラに行ったような形跡はありましたが。

 

そこからというもの、地獄の妊婦生活を送りました。

私の顔を見たくないと言われると、涙があふれ、それを見ても素通りして出ていく。久々に外食に出ても、『お前はさ・・・』と私の事を全否定され、店員さんがいても所かまわず泣いてしまっていた。生きる価値がないのだともいわれ、両親に申し訳ない思いで泣く日々を送っていました。

 

冒頭で書いた通り、知らず知らずのうちに自殺企図をしていた。『この子と一緒に死のう』『あいつは私たちがいなくなったら涙を流してくれるだろうか、いや、一週間後にはきっと、笑っているはず、私は生きている価値がない人間以下だから』

気づくとベランダに立ち、死ぬことだけを考え、私の両親を思い泣いていました。

 

 

我に返るときもありました。泣き寝入りしていてはダメだ。

産んだら離婚しよう。計画していくようになりました。私は専業主婦だったので、逃げ場がありませんでした。こんなこと、誰にも相談はできませんでしたし。

 

出産を控え1カ月前には里帰りをしました。

彼の仕事を離れた青森で手伝わされながら。会社への問い合わせ電話は携帯へ転送されてくる設定にされ、知りもしない業界の仕事を手伝わされるのはストレスでしかありませんでした。

 

そろそろ生まれるであろう1週間前にようやく頼み込んで解除され、安心してお産をしました。知らせを聞いた彼は、わざわざ来なくてもいいのに、楽しみにしていたのか、飛んで見に来てくれました。はるばる遠い所から新幹線や鈍行列車を乗り継いできてくれましたが、我が子を抱き、何も言わずにずっと見つめたまま何も話さない。

滞在時間は5分程度だったと思います。私への言葉は何もありませんでした。

『産んでくれてありがとう』『お疲れ様』、そんな言葉はドラマでしかないのでしょうか?むなしくなり、また泣きました。

 

病院へ駆けつけてくれた前の晩。

私の両親は彼から説教のようなものを受けたそうです。『彼女は・・』『悪い所は・・』

私の母は怒りを必死にこらえたそう。20代の若年者が50代へ説教をたれたのです。

 

ここまで、私とモラハラ夫との結婚・出産について書いてきました。

 

境遇は違えど、悩んでいる人はきっと必死になっていろんな記事を見ていると思います。私がそうだったように。

現在の私というと、そのころの不幸を解き放つことができるようになり、毎日幸せに笑っています。

 

望めば解決できる日が必ず来ます。完全に解決しようとしなくても、笑える日が来ますように・・・その力添えができることを望んで、ブログを書くことにしました(^^)/

 

今回はモラハラ夫の紹介でした。

長々と失礼しましたm(__)m